2階にも壁がついた。3階に進みながらサッシをつけている所らしい。毎週見に行くと少しづつ進展があって面白いね。
大工さんは一人なので邪魔にならないようにしてるんだけど、やはり母親や父親がいつも見に来てるらしい。それだけならいいけど、この期に及んで「ここ暗いから窓が欲しい」とか大工に言わんでくれ。2×4建築だから窓が付く所は限られているし、上棟してからの変更は普通無しだろう。それに、その件はワタシが既に却下したじゃん。ワタシが買う家なんだからと何回言っても直接業者にあたってしまう母。実家が建築業だったからとワタシを素人扱いする。時代が違うんだってば。それにうちはまだ正式な持ち主じゃない。タチが悪い買い手にならんようワタシが気をつけるしかないのか。
ところで、ここまで我が家仕様で進んでおきながらまだローン契約が済んでいなかったりする。ローン通らなかったら、うちは損失無しの「夢」で済むけど、業者や不動産屋はどうすんでしょ。
トマトがなかったのでサルチャで作りました。いやあ自画自賛だけどうまくできたよ。左が自作で右が本に載ってるやつね。ゼイティンヤール・ターゼ・ファスリエといいます。いんげん豆のオリーブオイル仕立てってことですよん。野菜だけなので冷やして食べます。afiyet olsun!
今日はいつものトルコ語教室で、茶話会があった。にんじんのサラダ?ディップ?のようなものがあって、A先生に作り方を聞いた。
にんじん 3本
塩・砂糖 少々
バター 大さじ1
ヨーグルト 大さじ3
にんじんをみじん切りにして、塩砂糖を加え、柔らかくなるまで弱火でゆでる。フードプロセッサーを使えば簡単よと先生。茹だったにんじんにバターとヨーグルトを加えて、おしまい。Afiyet olsun!
簡単だなぁ。みじん切りにするのが手作業だったら大変だけど。トルコ料理はとにかく野菜を細かくみじん切りにする料理が多い。そして殆どのトルコ人がみんな口を揃えて「トルコ料理は時間がかかる」と言う。本当かなぁ~?単に効率を考えてないときもあるような。蒸したり揚げたり炒めたり、時にはそれを組み合わせる中華料理の方がよっぽど手間隙かかってると思うのよねぇ。下ごしらえに時間や手間がかかる、煮るのに時間がかかるという料理、全部いっしょくたにしてはいかん。
昨日はトルコレストラン調査のためアセナに出かけ、トルコ語教室でクラスメイトだった娘が作ったというバクラヴァを食べた。紀伊国屋でフィロを買って作るらしくて、大雑把に作り方を教えてもらった。そうそう、フィロはマーサ・スチュワート・リビングでもギリシャの食べ物だと説明していたよ。それを見ながら、トルコのユフカ屋みたいだよなぁと思っていた。結局、日本でも自分で生地を作れなければギリシャ産のフィロを使うしかないようだ。一回作ってみようかな。
そして、今日もトルコ料理を食べておきながら、帰ってからもトルコ料理が食べたくなってしまう私。インゲンの冷製を作ってみたいと思い立ち、インゲンを大量に買ってトルコ料理の本を広げると、今日教えてもらったにんじんのサラダと似た感じのものが載っていた。そうか、あれはA先生バージョンなのねと納得なのだった。
彼にとって一番よい結末があるとすれば、日本のクラブ側がイメージを優先させたとき。失敗感を強くさせる出来事を長く引きずるのは嫌でしょう。オルテガみたいに時々蒸し返しのあるパターンが一番嫌なのではないだろうか。
と、この先どうなるかわからないけど、彼のことには一切触れないことに決めたので日記でもこれが最後。誰かのためにやってることじゃないから、自分が嫌だと思ったことはもうやりません。いまの日本の関わり方が一番彼のためにならないと思うからね。
トルコ映画の「少女ヘジャル」をみてきました。元題は「buyuk adam kucuk asik」、私風に訳すと「老人と小さな愛」。老人と身寄りのないクルド人少女のお話です。少女も老人も頑固ながら、トルコ人が持つ子煩悩さに負け続け、最後には「行かないでくれ」と言ってしまう老人の心の動きと孤独さが焦点になっています。老人の孤独さというのはどこの国でも同じなのね。
クルド人がいかに虐げられているか、差別が日常になっているかを身近に感じる話でもありました。それにしてもどうしてトルコ映画ってのはこう悲哀が似合うんだろうかねぇ。