〈マ ピエス〉電動ペッパーミル (758396-A/286)
楽天でじゃないんだけど、ハンズで買い物してたら案外安かったので買ってしまいました~。電動ペッパーミル。(見た目同じだから、多分これかなぁ)金額は5250円。プジョーはさすがに高くて1万円近くしていた。うさぎ耳みたいなペッパーミルは私のデザイン的感覚にあわんし、ボタン押すだけでいいかと思うとちょっとうれしい。ちなみに私のは単3電池4本で動きます。黒い持ち手のとこに電池が入ってるのです。(あら、でもプジョーも楽天だと7千円台からあるのねえ)
そして今日、近所のスーパーで安かったので水出しコーヒー専用ポット買っちゃいました(・∀・) 1000円しなかったものが20%引きで、800円しなかった。実はこの手のポット、4つ目なんだけど。(そのうちの一番古いものは捨てましたーハイ。)いちいち袋にコーヒー豆を詰めるのが面倒かつ無駄な感じがしていたので、これには期待しています。ダメでもあんまり惜しくない金額だし。でもこの下のサイズの700mlも使いやすそうだなぁ。最近、お茶も水出しってのが流行っているのかな?これはお茶版もあるんですよ。買わんけど。
やまけんのブログを見ていたら、蒸かし茄子のうまさを語っていた。時を同じくして私も2-3日前、圧力鍋で蒸し茄子を作るとうまいという話を目にしていた。焼き茄子は少々面倒な私でも、蒸し茄子は何度作っても良いと思うくらい簡単。洗った茄子を圧力鍋に入れてコップ1杯の水と共に1分加圧、そして放置。下ごしらえはヘタをとるくらいで十分。
1回目は水に浸かったままやって、2回目はスチーマーを使ってやったけど、結論から言うとどちらも変わらなかった。ひとつだけ惜しいのは、茄子の皮が色褪せてしまうことと、その色素は蒸気に溶け込んで落ちてしまうらしいこと。茄子のナスニンがぁ~...と思ったけど茄子本体がうまいので許す! 普通に蒸した場合は知らないけれど、トロッとした食感になるんですよ。冷やしてもおいしいだろうけど、すぐ食べたいので熱いまま食べちゃう。ショウガ醤油とかめんつゆとかをかけてどうぞ。
茄子といえばトルコ料理も茄子を使うものが多い。んが、丸揚げ丸焼きとかが下ごしらえに入るんで面倒なんですよ。茄子を揚げて裂いた中に具を詰めるイマーム・バユルドゥやカルヌ・ヤルク、焼き茄子の中身を刻んでヨーグルトとあえるパトゥルジャン・サラタス、揚げ茄子の中身を刻んでバターたっぷりのベシャメルソースとあえるヒュンキャル・ベーエンディ(これは更にその上に肉入りのソースがかかる、面倒な品)などなど。
全てのトルコ料理を知ってるわけではないから断じることはできないけれど、きっとトルコのナスは余程皮が固いのだ。だから皮を食べない料理が多いのだろうと踏んでいる。更に余談になるが、トルコ料理は野菜もくたくたになるまで煮るものが多い。おかげで私の中ではトルコ料理は柔らかいものという印象がついた。スパゲッティも芯がなくなるまで茹でるそうだし...は、もしかしてみんなチャイに砂糖入れたり甘いもの大好きだから虫歯人が多くて柔らかいものが好きなのでは! (偏見)
というわけで、焼き茄子や揚げ茄子を蒸し茄子で代用できる料理があったならと考え中なのであった。中身だけ使うやつなら可能かもしれないけれど、食感が違うかなぁ。いずれにしても相方は茄子は好きでないようだから、私しか食べないのだけれど。
最近日記を書いていないけれど、そこそこ元気にしています。相変わらず休みの日は引き篭もって、寝てるか、ときどき凝った料理とか、マンガ読んだりとか。メールに返信するとか、やらなきゃと思ったことは全部放置のまま。すみません...返信を考えて出すだけの働きを脳みそがしてくれません...もうこれで友人や信頼関係が壊れても仕方がないという位に日ごろから筆不精だったりするんだけれど、いまや私の思考は完全にシングルタスク。
相方が録画していた脳に関する番組を見ると、テレビゲームやマンガを読んでいる時間というのは脳がリラックスした状態なんだそうだ。文字を書いたりすると脳は活発に活動するが、PCで文字を打っている場合はそうでもないらしい。あと細かいことは忘れたんだけれど、それってネット上で見た記事を電子的に処理して意味を調べても頭に残りにくいってことに通じるなぁと。教室で話したり手書きでメモを取ってアナログ的に処理した方が記憶に残りやすいってことかもしれない。
であれば、検索性が悪くても、手書きでひたすらメモるのが語学としては正しい。あとは、読書は音読がよろしいそうだ。つまり、声に出して発音するのにも脳を鍛える意味があるということか。それで最近は、やけにマンガを読んで脳みそ空っぽにしたい気分が続いたんだけど、それってリラックスを脳が求めてるってことだったのねって言ったら「あんたのはゲーム脳!」と相方に切り捨てられました。
とにかく今はリセットを意識している。何もやらなくていい状態になってみて、そこから何をやりたいか考える時間をとろうと。(いまさら自分探しかよ!)自分ツッコミしつつ、せっかくのブランクだから気の済むだけ引き篭もってみてもバチはあたらないでしょう。どうせ1ヶ月もしたら飽きるし。長らく続けていたトルコ語教室もお休みってことにしたし、かといってトルコから全く離れるとモチベーションが下がってしまうので、フォークダンスのグループに参加してみることにした。もし続いたらどこぞのトルコの夕べで踊ってるかもね...。
出社日はあと2週間くらいかな。おぉぉ、引継ぎ進んでないよ。(--;; 仕事が減ったとたん全く使い物にならなくなって、仕事が逆に進まなくなってしまった。考え事をしようとすると、思考にノイズがかかったようになってしまって、しまいにゃノイズにのっとられてしまう。今は脳みそにぶっとい回路ができてるみたいで、何を考えようとしてもいまだにまだ5月のような気がするときがある。迷惑だけはかけまいと思って少々長めに設定したつもりが、中途半端なことになってしまったかも。私はもう燃え尽きてます。ごめんみんな。
どうにも気分が塞ぎがちで、PCに向かってもついスパイダーソリティアなんてやってしまう。元々根が暗いタチなので、気分が内側に向き始めたらなかなか外向きにはならない。まだまだ引継ぎ中なので、どうにか会社には行くけれど、使い物になっていない瞬間も多い。気がつくと宙を見つめて息をとめている。スポーツクラブに行くはずだったり、掃除をするはずだったりする休日も、気がつくとだらだらと時間が経っている。
時々、母が泣きじゃくって電話をかけてくる。大抵は、父親との喧嘩。忘れっぽくなって耳も遠くなった父に、母が用事を言いつけるがそれがうまくいかない。言葉が足りない母が言いつけた用事は、父は全て繋ぎとめておけないのだから。忘れっぽくなったことを責めても、今更治りはしないだろうし、忘れたことを本人が認める認めないで喧嘩することもない。となだめに行くのも近くに居るからできることだけど。根本的な問題は、母は、自分の思うとおりに世界がまわって欲しいだけなのだ。
父が断りも無く民謡の月謝を払いに行き、そこで唄ってきたというだけで気に入らない。唄って気分が良いということが、彼女にしてみれば罪悪なのだ。悲しまなければならないときに楽しさというものは必要がなく、悲しむべきときに楽しいものは遠ざけるべきという考えかた。もちろん、49日までは父も行かなかったし、忌があけたから周囲も勧めたのだろうけども、すぐ初盆だったのでお盆が無事終わるまでは自粛してほしいというのが彼女の考え方だったのだ。翻って父のほうはというと、いつまでも悲しみに暮れていても死んだ人間が帰ってくるわけではないしと合理的な考えかた。稽古に行ったのではなくて、休み続けていた間の月謝を払いに行っただけで、そのついでに一曲唄ってきたのがどうして悪いのかと一点張り。どちらの気持ちもわかるが、どうしてお互い相手の気持ちを思いやってやれないのか。どちらが正しいとか間違ってるとかそういう問題ではないのに。
私の方が悲しんでいるとか、楽しむ余裕があるから悲しんでないとか、お腹を痛めて産んだわけでないからとか、自分を基準にして自分と同じようにしてほしいと願うのは勝手だけれど、それは傲慢な考えかただ。それを押し付けてなお自分が正しいと言い張り泣かれた日には、全てを放り投げたくなってきてしまう。悲しみかたなんて人それぞれで、作法があるわけじゃないんだから。誰も心のうちまでは見えないけれど、悲しくないわけがないだろうに。といっても本当に放り投げるわけにはいかない、何せこの人たちが一番辛いのだから。
でも、どうも心の底から楽しむ気持ちになれない暗さは、同じような心理から来るのだろう。何をしていても空虚で、今まで楽しいと思っていた事も気が乗らない。もちろん前向きな気持ちも持ってはいるが、バランスをとろうとしてその分暗くなってしまう。私は本当は、落ち込んだときにはとことん落ち込んでいたいのだ。社会生活を営まないといけないから、外に出て行かなきゃいけないけれど。もう少し早く退職日を設定していた方が良かったのかもしれない。あと1ヶ月。そしたら、外に出なくてもすむんだなぁ。。